始めまして。こんちゃんです。
「お前誰だよ?」となると思うので、簡単に自己紹介させていただきます。
僕は、「TOEIC990点」「現役英語コーチ(元大手塾英語講師)」「早稲田大学OB」「トリリンガル」です。
「凄いですね!」ってたまに言われますが、
「頭悪め」「対人恐怖症」「うつ病経験」こんな側面もあります。
ポンコツ人間です。
「頭悪いのに早稲田?トリリンガル?矛盾してない?」と思われるかもしれませんが、嘘ではありません。
学生時代は、どれだけ勉強しても国語はなかなか平均点を越えなかったし、物理の試験ではなんと10点を取った経験もあります(もちろん100点満点中です)。
低スペック人間で、コンプレックスも結構強めです。
でも、このコンプレックスをエネルギーに変える力は人よりちょっと強いかもしれません。
これまで、自分の弱点をカバーするために戦略を立ててコツコツ努力してきました。
色々と端折りますが、
今はその努力の甲斐もあって「天職」に就けています。
「英語(TOEIC/英会話)のコーチ」です。
これまで累計300名以上のかたの英語指導を行ってきました。
2023年には法人化も予定しています。
人生順調!!!!
と言いたいところですが、
コーチになって生徒さんが全く集まらない時代もありましたし、
コーチになる前の会社員時代はたっくさん失敗してきました。
ブラック企業でパワハラを受け続け、
対人恐怖症も相まって会社で孤立して、
20代で転職2回(会社を3社経験)。
そして3社目も20代でやめています。
さすがに3社目をやめたときは、
「社会の線路から脱線した…」
「人生終わったかも…」
と思いました。
そんな僕が今は「英語(TOEIC/英会話)のコーチ」をしています。
なんだか不思議な人生です。
1ページにまとめるのは難しい人生ですが、
学生時代から振り返りたいと思います。
中学生編
今思えば、僕は昔から自分の”無能さ”を自覚していたと思う。
友達に誘われて入部した野球部ではいつも成績はドベ。
学校のテストでも特別良い点数を取ったことはなかった。
特に国語は大の苦手で、テストはドベの成績だったこともあるし、授業にもついていけなかった。
頭の回転が遅いので、気の利いたことを言うのも苦手だ。
集団の中で振舞うのも苦手で、2人での会話はできるものの、3人以上での会話が苦手だった。
だから自分で自分のことをあまり好きになれなかった。
でも母だけは違った。
僕がちょっとでも学校のテストでよい点数を取ったら母はいつも全力でほめてくれた。
それが嬉しくてたまらなかった。
自分で自分のことを認められない分、他人から褒められたり必要とされると本気で嬉しくなるタイプだ。
僕は「頭の悪い自分を何とかするため」「母から褒められるため」に毎日コツコツ勉強した。
僕はクラスの他の誰よりも勉強をしていたと思う。
その結果、学校のテストでは常に上位に食い込めるようになった。
当然母は自分のことのように褒めてくれ、僕は「もっと勉強を頑張るぞ!」とやる気が増して好循環に入っていた。
それでも国語の点数だけは中々上がらず、平均点を超えることもほとんどなかった。
今振り返ると、やっぱり地頭はかなり悪いんだと思う。
受験期になると、僕は地頭の悪さをカバーすべく毎日15時間くらい勉強した。
そして猛勉強の甲斐もあって、県内でもTOP3に入る進学校に合格することができた。
高校生編
高校に入学するや否や、周りのレベルの高さに唖然とした。
クラスメートは皆とても賢くて、コツコツ努力するなんて当たり前。
「おいおい、周りのみんな凄えよ。。。」
「努力するなんて当たり前でしょ?」と言わんばかりの世界に来てしまった。
「僕は何だったらみんなに勝てるのだろうか?」
実際、苦手の国語の授業には全くついていけなかった。
特に漢文や古文。勉強する意義が全く理解できないし、内容も頭に入ってこない。
「母に喜んでもらえるのは高校合格が最後だったのかも・・・」
こんなことさえ思ったりした。
厳しい競争で勝ち抜くために「戦略」を立てて勉強した
僕はとにかく考えた。
恐怖から脱出するためだ。
「僕はどうやったら生き残れるんだろうか?」
もう努力だけでは勝てないと悟った僕は、自分が生き抜くための戦略を考えることにした。
そこで一つのアイデアが頭に浮かんだ。
英語だ。
英語はみんなスタートラインがほとんど同じ。
しかもアメリカ人は頭の良し悪しにかかわらず全員が英語をできているではないか!
頭の悪い僕でも努力さえすればマスターできると直感的に思った。
英語のテストで学年1位に!
僕は英語を勉強しまくった。
英語は国語の試験と違って、高度な読解力や思考力が問われない。
文法や単語を覚えさえすれば、頭が悪くてもなんとかなる科目だ。
単語の記憶だってあまり頭を使わずにできる。
しかも勉強したらそれがすぐに点数として結果に出る。
なんて最高な科目なんだ!
僕は英語が大好きになった。
英語を勉強しまくり、効率的な勉強法も自分で考えたりした。
その甲斐あって、僕は英語のテストで学年で1位を獲得できた。
そして、学校内では「英語と言えばこんちゃん」と言われるほどのポジションを獲得できた。
「こんちゃん、英語教えて!」
「こんちゃん、宿題やってきたんだけど、これであってる?」
毎日のようにこうやって声をかけられるようになり、めちゃくちゃ嬉しかった。
人から必要とされることってこんなにも幸せなことなんだなと感じた。
そして、一度このようなポジションを築いたらプライドも芽生えてくるもの。
僕は「1位の座を他人に譲ってたまるものか!」との思いで、一生懸命英語を勉強し続けた。
はたから見ると苦手なこと(国語)から逃げているだけと思われるかもしれない。
でも、逃げても良いのだ。
嫌なことからは逃げてさっさと自分が輝ける場所を探すことが大事だと思う。
運命の大学受験
そんなこんなで僕は英語はできるようになった。
でも大学受験ともなると、英語以外の科目に目を背け続けるわけにはいかない。
特に厄介だったのは国語と物理だ。
物理についてはテストで10点(しかも4択問題!)を取り、先生にこっぴどく叱られた。
そんな中、高校3年生になり志望大学を絞る時期になった。
そこで僕はまた戦略を考えた。
僕のこのポンコツ地頭でいかに最大限の成果をあげるのか。
戦略を考えるのは僕は得意なようだ。
というか戦略を考えずに真っ向勝負しては僕は勝ち目はないことを昔からよく知っていたのだと思う。
僕が考えた条件はこの2つ。
- 英語の配分が大きい
- 科目数が少ない
そこで、慶応大学経済学部(英語200点、数学150点、小論文70点)と早稲田大学商学部(英語80点、数学60点、国語60点)、早稲田大学社会科学部(英語50点、国語40点、数学40点)が候補に挙がった。
これだけ科目を絞って努力すればポンコツでも合格できるだろう。
そして、やはり嫌いな国語は軽く流しながらも、英語と数学の勉強に全力を注いだ。
特に英語は友達には絶対に負けたくなかった。
友達が英語を1日5時間勉強したと聞くと、僕は1日6時間勉強した。
それも事前に勉強方法をしっかりと調べた上で。
その結果、、、
早稲田大学商学部、社会科学部に合格した。(慶応には軽く落とされたが!)
「やったぞーーー!!!」
こんなポンコツな僕が早稲田大学だなんてちょっと信じられなかった。
勝因を上げるとすれば、もちろんかなりの勉強量はこなしたが、やはり”戦略”にあったと思う。
※ちなみに僕は一応センター試験も受けていた。英語は195点。1問ミスだった。
でも5科目総合で見ると、決して良い数字ではなかった。
やはり5科目勉強していたら僕の頭では良い大学には入れていなかったと思う。
だから僕は5科目(以上)勉強して公立大学に入っている人を心から尊敬している(笑)。
大学生編
自信を無くし対人恐怖症も発症
入学式後のオリエンテーションでクラスメートとの初顔合わせ。
高校入学時のそれとは比較にならないほど、周囲のオーラに圧倒された。
北は北海道から南は沖縄まで、全国の優秀な人達が集まっていた。
みんな頭は良いし、イケメンだし、キラキラ輝いていた。
しかも「リア充」オーラが凄かった。
僕は決してリア充タイプではなく、クラスメートに全く話しかけることができなかった。
そして誰にも話しかける勇気がなかった僕は、大学では友達が全くできなかった。
そして自分と周りの人を比べては自信をなくしていった。
さらには人と接するのが急に怖くなり、対人恐怖症だと自覚した。(それ以前からあがり症で人と接するのが得意ではなかったものの、大学時代に急激にエスカレートした。)
だから僕は大学に行っても一言も発しないことは当たり前だったし、友達がいないことが恥ずかしくてトイレで昼ご飯を食べることもあった。
今思い返すと、僕にとっての最大の暗黒時代である。
TOEICを受験して悔いが残る「850点」
クラスでの居場所がなかった僕は時間を持て余していた。
そんな中、大学1年生の3月にTOEIC試験を受けることになる。
僕の大学ではTOEICの試験が必須だった。
友達との情報交換もなかった僕が試験の存在に気づいたのは試験の訳2か月前だった。
友達がいないと必要な情報にもなかなか気づけなくなる。
2か月弱の準備期間しかなかった。
ちなみに、僕は大学に入ってから勉強を全くしなくなっていた。
その理由は2つある。
- 仲間やライバルがいなかったから
- 母が僕をほめなくなったから
※母は僕が大学受験に合格して燃え尽きたようだ。
このままだとヤバイという恐怖はあった。
しかし、大学で孤立していた僕は「頑張る」エネルギーが中々わいてこなかった。
今振り返ると、何事も頑張るには仲間やライバルの存在は大切なのだと切に思う。
1人でできることなんてたかが知れているのだ。
そんな僕だったが、
TOEICだけは頑張らないと本当に僕の大学生活は終わってしまう。
と思い、TOEICの勉強にコミットすることにした。
でも、TOEICの英語は思った以上に難しかった。
というよりも、「大学受験の英語」と「TOEICの英語」は同じ英語ではなかった。
TOEICはビジネス用語が多く、「TOEIC対策」が必要だと知った。
そこで高校時代の「英語の基礎」を復習しながらも「TOEIC対策」をした。
勉強方法をネットで調べて色々と工夫もした。
でも、仲間やライバルの不在は僕にとっては痛かった。
高校時代は1日14時間以上普通に勉強できていたのに、大学時代は1日3時間勉強するだけでも苦しかった。
それでも何とかモチベーションを保って勉強した。
そして結局、TOEICのスコアは850点だった。
悔しい気持ちしかなかった。
正しく勉強したつもりではあったものの、不完全燃焼だった。
この時僕は、勉強は「環境」が大事だと気付いた。
お互い高め合える仲間やライバルの存在。
成果を出したらほめてくれる人の存在。
言い訳のようだが、この「環境」を整備できないと成果を出すのは簡単ではないと思う。
中国語に没頭して「新しい世界」を知った
暇でやることがなかった僕だったが、中国語の勉強に恐ろしいほど没頭していた。
大学では第2外国語として中国語を専攻していた。
そして中国語を勉強しているうちに中国の色々な文化に触れたりもした。
中国に行って現地の人とカタコトの中国語で交流もした。
そこで感じたのは言葉では表現しがたい、
「居心地の良さ」だった。
恐らく中国の多様性から来ているのだと思う。
エリアによって人種も違えば、食べ物も景色も言葉も常識も全く違う。
僕はもともと劣等感が強くて、
自分と他人を比較してはみんなと同じようにならなきゃ!
と感じていたが、中国ではそれがなかった。
「ありのままの自分でいていいよ。」
と言われているようで、
ものすごく心地よかった。
だから僕はもっともっと中国のことを知りたい!と思って、中国語を必死に勉強した。
そして中国語をマスターした僕は、中国のことをもっと知ろうと中国に何度も行った。
中国語をマスターして訪れた中国は、以前の中国とはまた違う世界だった。
中国語を使って現地の人と触れ合い、
現地の生活に入り込んでみると、これまで見えてこなかった「リアルな中国」が見えてきた。
僕が一番驚いたのは、
「中国の若者は日本が好きな人が多いこと」
「中国の生活に日本文化が浸透していること」
そして「僕は日本人です」というと、99%の人が僕を大歓迎してくれた。(もちろん反日の精神を持った人と出会うこともあったが。)
これは僕からしたら衝撃的なことだった。
当時は尖閣諸島問題で日中間の問題が最悪の状況で、日本のメディアでも「反日」の情報しか取り上げられていなかった。
だから僕は正直中国が少し「怖い」と感じていた。
でも実際はテレビが伝える現実とリアルな現実は違っていた。
メディアがいかに断片的な情報を伝えているか、メディアの思惑によって僕らがいかに錯覚させられているかに気づいた。
言葉ができるだけで、同じものを見ても180度違う世界に見えることもあるんだ。
と言葉の可能性を大きく感じた瞬間でもあった。
英語を教えて気づいた大事なこと
実は中国語の他にも没頭したものがあった。
それは、個別指導の塾講師(アルバイト)だ。
この仕事を選んだ理由は5つある。
- 好きな英語に関する仕事がしたい
- 僕の経験を活かして英語を通じて生徒の良い未来を作りたい
- コスパの良い仕事がしたい(給与が高い)
- 集団の中で仕事をするのは怖い
- 大人数の前で話すのは緊張する
しかし、個別指導塾での指導は想像以上に難しいものだった。
対人恐怖症の僕にとって相手が中学生であれど、かなり緊張して中々うまく話せないこともあった。
ただ、それ以上に、僕が英語を教えても生徒の英語力があまり伸びなかった。
これが一番辛かった。
そもそも個別指導に来る生徒は比較的学力の低い生徒が多い。
集団授業についていけない人が集まるからだ。
そのため、英語の知識を正しく伝えても、彼らは中々理解できない。
更には勉強してくれないというのは当たり前。
「ここ宿題ね。」
「うん。」
この「うん。」という言葉に何度裏切られたことか。
僕は「英語ができる」ことと「英語を教えられる」ことは別物だと知った。
僕はかなり悩んだ。
僕の過去の失敗、講師仲間、ネットでの情報を元に作戦を練った。
どうやったら生徒の英語力が伸びるかをずっと考え続けた。
結論、
僕が目指すべきところ(戦略)は、
「生徒が自主的に英語を勉強したくなる環境づくり」
だった。
そこで導き出した戦術がこちら。
- 生徒が好きなことと英語を関連付ける
- 何かできたら最高にほめる
- ライバルや仲間を意識させる
- 英語学習を習慣化させる(少ない量の宿題を毎回出す)
僕がやったのはこれだけ。
これで生徒の英語はかなり伸びた。
最終的には全員がクラスの平均点以上になった。
もともとはほとんどの生徒がクラスで下から片手で数えられる英語力だったにもかかわらず。
(対象は30名ほど。僕が教えた生徒約80人のうち、半年以内の短期間の受講生約50名を除いた数字)
また、そのうち5名は英語が大好きになり、自分から英語を毎日勉強してクラスでトップレベルの英語力になった。
「こんちゃん先生!ありがとうございます!本当に助かりました。」
生徒の保護者にもかなり感謝された。
それがたまらなく嬉しかった。
でも僕はあまり英語の細かい内容にはタッチしていなかった。
彼ら自身で少しづつ英語を学ぶようになったのだ。
この時僕はとんでもないことを学んだ、と思った。
「勉強方法や環境を変えるだけで成果は大きく変わる」
これは僕が生きていく上でも非常に重要な指針となった。
半ば放棄した就活活動
大学で大したことを成し遂げるわけでもなく、気づいたら大学3年の冬。
就活が解禁されるシーズンになった。
恐怖しかなかった。
社会に出るのが怖かった。
大学でうまくやっていていけなかった対人恐怖症の人間が、会社に入れるのか。
僕は就活をほぼ投げ出していた。
同級生が次々と大手有名企業から内定をもらったという話を聞くたびに、自分に対するセルフイメージはガタ落ちだった。
「僕はなんてダメな人間なんだろう・・・」
そう感じ、就活から距離を置くようになっていた。
それでも大学4年の春も終わり、このままだとさすがにマズいと思った僕は初めて面接を受けた。
その会社は、僕のクラスメートが受けているような大企業ではなく、誰も知らないような中小企業。
何も準備をせずに臨んだ。
結果は「不採用」。
あのときの絶望感は今でも忘れることができない。
(今思えば何も準備していないから不採用で当たり前だ!笑)
たまたま受けて合格した物流会社へ
そんな中、何となく面接に応募した物流会社との面接の日。
僕は「どうせダメだろう」と思いながらも面接を受けた。
アピールできることも多くなかったので、塾講師としての経験や語学力をPRした。
すると、こんなことを言われた。
「今後、海外にも事業を展開させたいから、英語ができる人材を探していたんだ」
その時、直感的に、
「現在の少子高齢化社会の中で、今後は語学ができる人材はより重宝されるのではないか」
と思った。
そして同時に、「意外と英語ができる人材ってまだまだ不足しているんじゃないか?」とも感じた。
僕が思っていた以上に英語力は評価されていたようだ。
そして僕は無事この物流会社から内定をもらい、入社することとなった。
社会人編
大学時代と同じく、僕は会社に入っても対人恐怖のせいで上手く人と話ができなかった。
人と話すことができなければ、当然良好な人間関係も築くこともできなかった。
そんな中でも、英語と中国語いう武器が僕に居場所を与えてくれた。
僕はこれまでに3社を経験している。
1社目:物流業界(営業)
2社目:ITコンサル(コンサルタント)
3社目:海外向け広告会社(広告運用)
物流会社はハードワーク&パワハラのブラック企業だった
1社目の物流会社は新卒というだけあって、先輩には可愛がってもらえた。
対人恐怖ではあるものの、先輩にたくさんいじられ僕の居場所はあったように思う。
(時に度を超えるいじりもあったが!)
思い返すと、
「お前本当に早稲田か(笑)!?」
と何度も言われた。
始めは少し戸惑ったけど、大学時代にはなかった距離感での会話で、少し嬉しかった。
が、そんな僕の職種はまさかの”営業”だった。
対人恐怖の僕はうまく営業で成果を出すことができなかった。
さらには僕の上司は「ハズレ」で毎日がパワハラの連続だった。
人前で何度も怒鳴られた。
トラウマになるくらい人が怖くなった。
そして始発終電が当たり前の毎日。
先輩や上司は年間休暇が1,2日しかない。
しかも聞いた話によると課長クラスでも年収は400万円くらいのようだ。
今の辛い状況を耐えて耐えて頑張っても、その先の未来(課長の姿)がこれだと頑張る気力がわいてこなかった。
僕は転職を決意した。
ITコンサル会社では英語が役立った!
僕は1社目から逃げるように会社を辞め初めての転職活動を始めた。
営業のような対面で人と関わる機会が多い仕事は二度と御免だ。
もちろん始発終電やパワハラの横行した労働環境は避けたかったし、
給与だって頑張った分もらえる仕事をしたかった。
そして僕が目を付けたのはとある大手のITコンサル会社だった。
IT関連なら対面で人と話す機会が多くないだろうと思ったし、
コンサル業界だと給与も高くなると期待していた。
そして対面での面接が大の苦手の僕は、
面接の準備をこれでもかというほど入念に行った。
そして面接ではTOEICなどをうまくPRして、
見事内定をもらうことができた!(相当緊張はしたが!)
ちなみに年収は100万円以上UPしたので、
転職は僕としては大成功だった。
ITコンサル会社ってなんだよ!
って思う人のために簡単に説明すると、
クライアントのIT部門に常駐してIT関連のアドバイスやサポートをするお仕事。
ちなみにこのITコンサル会社では英語力が相当役立った。
そしてITも猛勉強した。
IT×英語という武器で何とか居場所を確保できていた。
しかし、やはり対人恐怖のせいで現場でうまく人間関係を築けなかった。
ある案件では業務連絡が主にオンラインチャットで行われていたので、その時には上手く仕事が回った。
しかしその案件は2か月で終了となり、また対面でのコミュニケーションが必要な案件へと戻ってしまった。
精神的負担がかなり大きかった。
気づいたら職場の居心地が逃げたくなるほど悪くなっていた。
また、IT自体にあまり面白さを感じることもできなかった。
情けないと思いながらも僕は2度目の転職を決意した。
海外向け広告会社も語学で何とか生き延びたが・・・
3社目は中華圏&英語圏向けの広告運用をしている大手広告会社。
会社選びの際の基準は、
労働環境や待遇はもちろんだが、
- 対面で人と接する機会が極力少ない仕事
- 自分が本気で好き・得意なことを活かせる仕事
を探していた。
そこで候補に挙がったのが、
中華圏や英語圏に対して広告の運用をする会社だった。
英語や中国語、中華圏の文化が大好きな僕のためにあるような仕事だと思った。
そしてこの会社に応募して面接も上手く乗り切り、見事採用してもらえた。
対人恐怖の僕は面接は苦手だが、
面接の戦略(何をどう伝えるか)は得意なのかもしれない(笑)。
給与は前職からまた少し上がった。
この会社では僕は英語や中国語での広告運用を任された。
「やっと自分の好きな仕事を見つけたぞ!」と思った。
仕事が楽しいと感じることもあったし、会社に貢献できているという実感もあった。
しかし、結局対人恐怖は拭えず、人間関係も構築できなかった。
とにかく居心地が悪くて、毎日職場に向かうのが憂鬱だった。
それでも、2度転職をしているし、自分で選んだ会社なのだから簡単にやめるわけにはいかなかった。
僕は全力で頑張った。
対人の恐怖に耐えながらも、クライアントのために夜遅くまで働くこともあった。
できる努力はした。
でも、クライアントから本当に感謝されたことは1度もなかった。
彼らは「お金を払っているんだからやってくれて当たり前。」というスタンスだった。
色々なことに耐えながら働いているのに誰からも感謝されないのがショックだった。
そして”頑張る理由”が見つけられなくなり、「自分には会社で働くのは無理なんじゃないか」「僕は社会不適合者なのかな」と考えるようになった。
そしてそのころ家族の介護も重なり、僕は”うつ病”と診断された。
また転職しても同じことの繰り返しになることはわかりきっていた。
だから僕は人生のプランをもう一度見直そうと思った。
学生時代に戦略的に受験に挑んだように、また戦略を考え、自分が勝負できるフィールドを探した。
そして、オンラインのビジネスに力を入れようと決めた。
対面でのコミュニケーションが不要で、在宅で介護をしながらでもできるからだ。
僕は3社目に勤めていた時、縁あって台湾人女性と結婚した、台湾料理屋で知り合った女性だ!
「外国語ができると色々な可能性が広がるんだな」ということを身をもって実感した。仕事の範囲も広がるし恋愛の範囲も広がる、当然知識の範囲も広がる。
自分が使える言語の数だけ人生の奥ゆきも変わってくると感じている。
独立するために200万円以上の自己投資
さて、僕は独立するために勉強しまくった。
勉強のため僕は約4か月で200万円以上を自分の頭に投資した。
そして月に100冊ほどの読書を通じて学びまくった。
成功するためのマインド、時間の使い方、習慣化の方法、勉強効率を上げる方法、体調管理の方法、ビジネスの基礎、などなど。
毎日朝4時に起きて出社前に勉強してから出社し、帰宅後も12時まで勉強しまくった。
とにかく現状を変えるために、自分が生きていくために努力しまくった。
その結果、自分のビジネスでも少しづつ結果が出るようになってきた。
少しづつ稼げるようになったのだ。
やることが明確になった僕は、きっぱりと会社を辞めた。
僕が勝負できる土俵にやっとたどり着いた。
僕がTOEICコーチングをする理由
僕はビジネスが軌道に乗ったと同時に、”自分が本当にやりたい&自分が得意なことは何か”を考えるようになった。
また、やるからには「人から本気で感謝されるような仕事」がしたい。
会社員時代のようにどんなに努力しても相手からは”当たり前”だと思われることはしたくなかった。
そして思い立ったのが、「オンラインで英語(TOEIC)を教えること」だ。
さらに言えば、「英語(TOEIC)を通じて年収UPを実現して理想の未来を叶えるサポートをすること」だ。
TOEICは決して目的ではない。
TOEICは人生をよくするための手段に過ぎない。
TOEICの勉強を通じて、転職して年収を2,3倍にしてきて人も見てきたし、昇進だって楽になるし、一流企業に勤めることもできるし、とにかく就職で無双できるし、仕事の幅も無限に広がる。
女性にもモテる、というか交流する範囲が爆発的に増えるし、海外移住も自由にできるし、海外のリアルな情報に触れて自分の世界観やモノの見方を180度変えることもできる。
まだまだ他にもあるが、とにかく数えきれないほどの理想の未来が手に入る。
これらの全部をサポートすることはできないが、
僕が2度転職して年収をUPさせた経験を活かして転職サポートをして年収UPのお手伝いがしたい。
ここまでできればその方の人生が最高にHappyになり、僕もそれを見て最高の幸せを実感できる。
そしてこういった仕事であれば、僕のこれまでの全ての経験を”価値”に変えて多くの人に提供できる。
”英語力” ”英語でのビジネス経験” ”塾講師としての経験” ”200万円以上投資して学んだこと(成功マインド等)” ”転職の経験”など。
そして、僕は今実際に、TOEIC学習のコーチング・学習コミュニティ運営をしている。
これまでに指導してきた生徒の数は200名以上。
仲間(生徒の方)と一緒に日々、僕自身も勉強に励んでいる。
そして仲間(生徒の方)と一緒に日々、コミュニティの改善をして日本一の学習環境を作ることを目指している。
その先に、仲間(生徒の方)と自分のよりHappyな人生が待っていると信じて。
>TOEICで成果にコミットする方法や、TOEICのコーチング・学習コミュニティについてはLINE@よりご案内します。